ところで、そもそも清瀬ってどんなところ・・・・・。
清瀬の名は、清戸の「清」に柳瀬川の「瀬」をくっつけたものといわれ、大正13(1924)年に武蔵野鉄道(現、西武池袋線)清瀬駅ができてから急速に変貌を遂げました。
中清戸2の「日枝神社」境内には水天宮、琴平神社、御岳神社の末社があり7月には獅子舞が行われます。そのすぐ前を昔は八王子の石灰を江戸へ運んだ幹線道・引又道(現、志木街道)が通り、路傍には馬頭観音がひっそりと佇んでいます。
下宿2の「円通寺」から見つかった板碑二十二基は、永仁7年(1299)のもので周辺で最も古い遺物で、今の下清戸地区の畑からも多くの遺跡、遺物が発見されました。
「円通寺」に近い、現在の下宿1の「八幡神社」は暦応年間(1338〜42)に新田義助が建立したもので、周辺には武士の居館が建ち並んでいたと思われます。
室町時代には山内上杉氏により八王子に「瀧山城」が構築され柳瀬川対岸には「瀧城」(所沢市)が造られ、これを結ぶ「瀧山街道」の要衝として上清戸、中清戸、下清戸が開かれ集落が形成されました。
最も古い「清瀬村」人口集計では、明治33(1901)年に家屋420棟3125人と有り、大正4(1915)年の「北多摩郡勢一覧」には全戸数の87%が農家とあり、第二次大戦の直後まで純農村が続いたようです。
終戦後東京空襲での疎開者の急増や引き上げ者住宅の建設も有って人口が増え、西武線の複線化(昭和28年)と大規模公営住宅の完成で一挙に人口が膨らみ、5万人を突破、昭和45(1970)年に市制を施行しました。
昭和の初期から、清瀬といえば「病院の町」でした。武蔵野の雑木林の中に国立、府立など大型の医療施設や研究施設が建ち並び、結核治療に大きな貢献を果たしました。
堀辰雄の小説「風立ちぬ」の舞台にもなっているのも皆様ご存知の通りです。
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