清瀬銀座会の歩み・・・先輩に聞いたこと・・・。

 

終戦から70年、歳月の流れまことに早いものがあります。
昭和29年に発足した私たちの清瀬銀座会も60以上の年を経過した今日、来し方を振り返り見ることも、きわめて意義の深いものと思います。
かつての先輩、古老が折にふれて語られた話を整理しての回顧、私たちの歩みの参考に供したいと思います。

 

銀座会昔話・・・・・

 戦後、武蔵野の面影を豊かに残す芝山地域(松山・竹丘・梅園)に戦災等々の困難を経験された方々の住宅が少しずつ建ちはじめ、また、都立清瀬病院をはじめ13ケ所に及ぶ医療施設が整備された療養のメッカとして全国に知られる清瀬に移り入院されたり、その見舞に訪れる人々も増え、駅から全て歩いての往来で沿道に商店も目立つようになりました。

 

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昭和22年、外地からの引揚者の住宅の整備にはじまり、昭和30年代後半まで続く松山・竹丘の都営住宅の建設や住宅開発により、買い物客の賑わいが生まれました。
 市内の他の地域に先駆けて銀座会が誕生したのはそんな昭和29年のこと。以来、地域の安全を高める街灯の設置や新しい地域の触れ合いを目指す盆踊りの実施等々皆様に喜ばれる事業を実現してまいりました。

歳月は流れ・・・・・

 現在まで、清瀬銀座会も60年以上の月日を重ねてまいりました。
会員の中には二代目三代目と商売を引き継いで来た者も数多くおります。
地域の活動・コミュニケーションの場としても地元商店街の役割はこれから訪れる尚一層の高齢化社会にはますます必要な存在として受け継がれて行かなければならないと考えます。
 現在、清瀬銀座会では夏のイベント盆踊りや歳末の謝恩抽選会の開催。また青年部・女性部においても。より地域に役立つこれからの商店・事業者の在り方を模索しております。

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ところで、そもそも清瀬ってどんなところ・・・・・。

清瀬の名は、清戸の「清」に柳瀬川の「瀬」をくっつけたものといわれ、大正13(1924)年に武蔵野鉄道(現、西武池袋線)清瀬駅ができてから急速に変貌を遂げました。
中清戸2の「日枝神社」境内には水天宮、琴平神社、御岳神社の末社があり7月には獅子舞が行われます。そのすぐ前を昔は八王子の石灰を江戸へ運んだ幹線道・引又道(現、志木街道)が通り、路傍には馬頭観音がひっそりと佇んでいます。
下宿2の「円通寺」から見つかった板碑二十二基は、永仁7年(1299)のもので周辺で最も古い遺物で、今の下清戸地区の畑からも多くの遺跡、遺物が発見されました。
「円通寺」に近い、現在の下宿1の「八幡神社」は暦応年間(1338〜42)に新田義助が建立したもので、周辺には武士の居館が建ち並んでいたと思われます。
室町時代には山内上杉氏により八王子に「瀧山城」が構築され柳瀬川対岸には「瀧城」(所沢市)が造られ、これを結ぶ「瀧山街道」の要衝として上清戸、中清戸、下清戸が開かれ集落が形成されました。
最も古い「清瀬村」人口集計では、明治33(1901)年に家屋420棟3125人と有り、大正4(1915)年の「北多摩郡勢一覧」には全戸数の87%が農家とあり、第二次大戦の直後まで純農村が続いたようです。
終戦後東京空襲での疎開者の急増や引き上げ者住宅の建設も有って人口が増え、西武線の複線化(昭和28年)と大規模公営住宅の完成で一挙に人口が膨らみ、5万人を突破、昭和45(1970)年に市制を施行しました。
昭和の初期から、清瀬といえば「病院の町」でした。武蔵野の雑木林の中に国立、府立など大型の医療施設や研究施設が建ち並び、結核治療に大きな貢献を果たしました。
堀辰雄の小説「風立ちぬ」の舞台にもなっているのも皆様ご存知の通りです。

 

 

 

 

 

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